久慈秋祭りの歴史

<起 源>
 久慈秋祭りの起源といわれるものは古く、応安2年(1368)に南学院宮沢家(現在の久慈東高校の辺りに『南学院』というお寺がありました)の先祖が荒町の秋葉神社の社司だった時の話にさかのぼります。 その時に、御霊(ご神体)を奉持(お運び)して今の荒町にあった六角堂(そういうお堂があったのでしょう)を御旅舎にして旧暦9月17日、18日、19日を祭りの日に定めたのが始まりと云われています。久慈秋祭りは600年余の歴史があると云われるのはこのためです。

<江戸時代の久慈秋祭り>
久慈秋祭りが初めて文書に登場したのが今から約220年前。寛政2年(1790)に久慈を訪れた尊王思想家の高山彦九郎が書いた北行日記です。 それによると、訪問時の旧暦9月15日(現在でいえば10月中旬頃)に八日町の目あかし(岡っ引き)の家に泊まり、たまたま夜祭り中だった秋葉神社を参拝しています。 (当時の久慈秋葉神社は現在の形とは違い別個に祀られていました) そこで、以下のような歌を残しています。

千早ぶる神代のことを伝えてや  庭火たきつつ祭りをぞする

そのことからは、最初は秋葉神社を主にした祭りだったようです。しかも、高山彦九郎は神社の境内で様々な宴が催されていた旨を日記に記しており、当時のお祭りには山車の運行は伴っていないことがわかります。 それでは、久慈に『山車』と呼べるものが登場したのはいつ頃のことか。それを考えるために極めて重要となるのが、盛岡や八戸のお祭りの歴史です。

<江戸時代の八戸と盛岡から>
盛岡では、盛岡藩家老席日誌『雑書』の中で正徳3年(1713年)に『此節町印笠ほこ并町子ともおとり御新丸御二階より御覧被遊』との記述があることから、遅くとも日記が書かれた1713年には各町内のから町印(丁印)が神輿渡御に加わっていたことがわかります。


また、八戸三社大祭の始まりは、享保6年(1721年)で今から約290年前にさかのぼります。少なからず盛岡のお祭りに影響を受けて始まったと考えても不思議ではない頃あいです。とはいえ、最初の八戸のお祭りには山車どころか町印(丁印)さえ登場していませんでした。それから26年後の延享4年(1833年)の記録には初めて『出し』が登場します。ここでいう『出し』が上の写真にあるような町印(丁印)だったと思われます。そこからさらに86年後の天保4年(1833年)の記録には『信玄』や『関羽』といった町印(丁印)が登場しています。ちなみにこの『信玄』は現在も龗神社に保存されているものだと思われます。また、現在の八戸三社大祭で実際に行列に参加している『太公望』もこの頃に登場したもので、150年近くたっても現役でお祭りに参加している貴重な存在なのです。この頃の丁印は毎年作り変えるのではなく同じものを引いていました。明治24年頃になってから現在のように毎年作り変える山車が各町内主体で奉納されるようになり現在に至っています。
また、八戸周辺を見てみると、歴史のある三戸三社大祭では文政9年(1826年)の記録に『屋台』が登場したと記されていますし、五戸祭りでは明治30年代の山車の写真が現存しているそうです。

<明治時代の久慈秋祭り>
 久慈秋祭り『山車ものがたり』84年版に小学校教諭だった中沢義雄先生がまとめた久慈秋祭りの歴史が掲載されいます。古老の話なども交えた内容で、今となっては極めて貴重な資料です。この中で私が最も注目したのが久慈にも次の3基の町印(丁印)が存在していたことです。

・上久慈(荒町~十八日町)では晴山家(橘屋):『お恵比寿様』

・上久慈(荒町~十八日町)では兼田家(市十郎宅):『八幡太郎義家』

・下久慈(二十八日町~新町)では中野家(毘羅屋):『楠木正成,正行の桜井駅の別れ』

  これらの町印(丁印)がいつから祭りの行列に参加したり飾られたのかはよく分からないとのことですが、藩政下では藩の許可がない限り神輿渡御などはできないことから、久慈の場合は明治に入ってからだと推測できます。 晴山家の『お恵比寿様』は大正の末頃まで現存していましたが、各町内の山車が出るようになってからは、屋敷内の神社前に忌竹を添えて飾っていたそうですし、お祭りが近づくと晴山家では大きな櫓を組んで立派な幟(のぼり)を立てて遠くの人にも見えるようにしたとのことです。幟には『五穀豊穣・大漁祈願』『火廼要慎(ひのようじん)』と染め抜かれていたそうです。 また、中野家の『楠木正成・正行の桜井駅の別れ』は明治40年(1907年)頃までは家の前に飾っていたそうです。  これらの町印(丁印)について、長内仁太郎氏(駅前)や中野ナカ氏(小久慈)は、『町印の人形は立派なものであり、人形を乗せる屋台の大きさは約九尺四方(約2.7m四方)あって屋根は陣笠の作りと同じに油紙に漆塗りで市松模様であった。この屋台を担ぐ人は部落から出た24~25名の人夫で、最初の頃は旦那様のところでまかなっていたが、後になると氏子総代が米を集めて人夫質として渡していた』と証言していることも紹介されています。

<大正時代の久慈秋祭り>  ここからは、私の祖父から聞き取って記録したものから。 現在のような山車の形(山車の前面に太鼓が配置される)は大正14年に上組で初めて登場したといわれております。 それ以前の山車は2階構造になっており、1階部分に太鼓が入り、上段に人形が乗るといった形のもので、現在の京都祇園祭りの 山鉾をほうふつとさせる形であったということです。  当初の山車組は上組、中組、下組の3組で、その他に少年団と呼ばれる子供が参加できる山車や、芸者を乗せた 華屋台がお祭りに参加していました。その後、それぞれの山車組から分家が進み現在の山車組が形作られました。  当時のお祭りは非常にハイカラで、お囃子も笛だけではなく、バイオリンや吹奏楽器などを使うなど今と違いバラエティに富んだものだったとのことです。

明治45年生まれの祖父の記憶では、現在のような山車の形になったのは大正13年のことで、その時に初めて山車の前面に5つの小太鼓が並び、その後ろに大太鼓を斜めに置いて叩くようになったとしていて、その時に祖父も小太鼓を叩いたそうです。
その後、昭和8年頃、八日町の嵯峨鉄工所の嵯峨幸蔵氏が修行先の盛岡から久慈へ戻ってきて、盛岡で経験した盛岡八幡宮祭礼の様々な仕組みを上組に導入しました。半纏の柄を新しくし、腹かけ股引姿に衣装を統一したほか、音頭上げと大太鼓も向い合っての二人叩きに改め、山車の飾りも改善され大いに盛り上がったそうです。



昭和初期から大戦に終了まで、情勢不安な時代も久慈秋祭りは中止となることはなく継続されたということです。
戦後は新たに、に組、巽町組、本町組、銀座組が誕生し全7組による久慈秋祭りが続きましたが、昭和41年の大水害をきっかけに山車の自作をやめ、八戸から山車を拝借する形でお祭りを奉納してきました。
平成元年には昭和31年会が20年ぶりに久慈に自作の山車を復活させましたが、平成11年には銀座組が参加を取りやめてしまいました。しかし、翌平成12年には大川目町が備前組として自作の山車で参加し、全8台による体制で現在に至っています。

<最後に>
現在の久慈秋祭りは大神宮を主として行っていますが、大神宮には秋葉神社を合祀しているので江戸時代からの祭礼の流れは脈々と受け継がれています。
高山彦九郎が久慈を訪れた寛政2年(1790)から現在まで、少なくとも220年の歴史が史実から読み取ることができます。公には600有余年の歴史をうたうお祭りではありますが、史実として220年の歴史的事実に裏打ちされた伝統行事であるということは久慈市民として誇りをもって強調していくべき点だと思っています。今から200年以上前、八日町の小さな社のお祭りだった秋葉神社例大祭はNHK連続テレビ小説『あまちゃん』で全国デビューするほどの大躍進を遂げ現在に至っています。後継者問題など様々な問題山積ではありますが、今後も新しいことを取り入れつつ伝統を継続させていかなければならないと思っています。



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